Atsutaka Manabe

四月十日のソロコンサート


Apr 7, 2016

 またまた本当に久しぶりのブログ更新になります。今回はこの場を借りて、この日曜日に迫ってきたコンサートのお知らせと、独断と偏見に満ちた曲目解説をさせていただきます。

 今回は、各作曲家の後期作品を中心としたプログラムを組んでみました。演奏順でシューベルト、ショパン、ブラームス、そしてベートーベンです。

 

 作曲家の後期作品群に惹かれるようになったきっかけはベートーベン。彼の最後のソナタである作品111を、彼の作曲年までにはぜひ弾けるようになりたいと 言う思いが次第に募ってきたのです。その時の私は50才になる少し手前。彼が作曲したのは52才ごろと推定されているので、ほぼ二年強の時間があったのですが、この曲の演奏、とりあえず形にするだけでも一苦労でした。

 とにかく、本当にヘンな曲。二楽章形式というのがまず破格です。第一楽章はまるで交響曲、堂々としたマエストーソで始まり、テーマも重い。調性もあの”運命”と同じハ短調、ピアノで弾くよりオケ曲にしたほうがずっとよかったのにと思えるほどがっしりとした構成です。でも、それなのに、これはつぎにつなげるための問いかけにしか過ぎないのです。

 核となる第二楽章はピアノで弾くのが絶対とは言わないまでも、オーケストレーションが想像しにくい、不思議な、そして長い曲。いや、本当に長いのです。純粋無垢の美しいテーマから始まり、そのリズムがすこしずつ細かくなりながら発展し、それに伴い躍動感が増していって、そしてベートーベンこそがジャズの発明者と言ってもおかしくない、そんなリズムを持った絶頂点を迎える変奏曲。

 その頂点を過ぎた後、変奏曲形式は一応保っているものの、その外形はどんどん崩れていき、聴き手はもやのかかった道に連れていかれます。先が見えない、どうなるのかわからない。でも、いつしか一筋の光が見えてきて、そして少しずつすべてがはっきりとしてくる。天と地がつながる。そして最後の美しさは音楽ならではのもの。この二楽章後半部分にこそ、このソナタで彼が言いたかったメインメッセージがあるのです。

 弾き手としての私がここで感じるものをあえて言葉で表現するとすれば、人としての不安、神との対話、救い、そして人間というものの強さ、そんなようなものでしょうか。でも、聴き手であるお客様は、それぞれが経験されてこられた人生に重ねてこの作品を聴かれるのですから、まったく別の感情が引き起こさ れてもおかしくありません。それがある意味での音楽の懐の深さだと思います。

 

 ブラームスが間奏曲作品118ー2を書いたのはもう少し後、61歳です。この曲の真髄は枯れた美しさにあるとか言われることが多いのですが、私にとっては、 また少しベートーベンとは違った意味で、神に支えられて悟りを開いた人間の強さが表現されていると思っています。それは、単に私がまだ彼の実年齢には達していないことからくるのかもしれません。過去に私の演奏を聴いてくださった方々からは、”あなたの演奏は新解釈ね!”と、何とも言えないコメントをいただ くことが何回かありました。要するに、まだ人生経験が足りないよ、と言われているわけです。

 

 シューベルトとショパンは、後期作品とは言っても、シューベルトは実年齢で30才、ショパンは33才。シューベルトの即興曲作品142ー3には、まるで少年時代を彷彿とさせるような明るいメロディーの中に、年にまったくそぐわない諦め、絶望感、そういうものが織り込まれている気がします。一方ショパンのノクターン作品55ー2には、あくまでも美というものの追求にこだわり続けたショパンの執念が感じられます。ここでも感じるのは、自分の実年齢が55歳であるにもか かわらず、彼らの精神的年齢に達していないのではという不安。まあ彼らはどちらも天才ですから、あまり深く考えすぎないことにします。

 

 以上、好き勝手に自分の解釈を書かせていただきました。

 

 後期作品だけのプログラムでは何とも重くなってしまうので、ショパンの若いときの有名な三作品、ノクターンOp.9-2, 革命のエチュード、そして幻想即興曲をサンドイッチしています。そして後半の開始には、ベートーベンの大曲へのプレリュードとして、J.S.バッハが書いた誕生日カンタータをペトリの編曲で演奏させていただきます。

 

 ちなみに、お席はたっぷり、502席ほどご用意させていただいておりますので、開演直前に来られても絶対大丈夫です。朝もゆっくり11時の開演。お時間のある方、お越しいただけたらとても嬉しいです。拙い演奏ですが、一音一音に心を込めて弾かせていただきます。